まめのんきの猫背日誌

マメにノンキにやりたいと願う、都祁の自然食品屋まめのんき店主の些事争論な日々。

自分なりの取捨選択

年末のこと。

娘が洋服ダンスの整理をして

『もうお尻に穴あいてるから、さすがに捨てるわ』

と言ったズボンは

4歳のころに買って

11歳の、今夏まで履いていた。

 

8分丈ズボンが

ハーフパンツになり

ショートパンツになった。

 

ワッペン貼ったり

ツギハギしたり

『もう十分やろ』と思うほど履いたのに

いざ捨てるとなると

なんか切なく、ためらう。

 

残すことは容易く

捨てることは苦痛を伴う。

相反して、

捨てることは容易く

残すことは苦痛を伴う。

 

同じくして

やさしい人でいることは心地よく

冷たい人でいることは生きづらい。

やさしい人でい続けることは重荷となり

冷たい人でい続けることは身軽だ。

 

年の瀬、

やり残してはならない焦りに駆られながら

嫌な記憶を掘り起こして抱負を述べながら

切り捨てたり

残したりして

そしてまた、

はじまり、繰り返される一年。

 

ありたい姿とあるべき姿、

そこには少なからずギャップがあって。

 

自分を離れた場所から眺め

自分を他人のように扱える

そんな人になりたいと思う。

 

それはさておき、

年が明けたので

酒を飲み

ご馳走でお腹を満たし

怠惰に過ごすことで思考を止め、

それから今年を始めよう。

敬語と敬意の隔たり

毎年、ご近所の商店さんが

カレンダーをくれます。

(↑いちおう、店名など白ヌリしてます)

 

その商店のオジイチャンは

温厚で人柄よく、

一代で店を築き、

たくさんの経験と知識を持ち、

地域へもかなり貢献していて、

私はとても尊敬している。

だから、話すとき敬語になる。

 

かなり目上の人なので

あたりまえのことかもしれないけど。

 

うちの娘が

小学校でよく

『校長先生には敬語を使いなさい』

『先生には敬語を使いなさい』

『オトナには敬語を使いなさい』

と注意されるらしい。

 

敬語は

無理に使うものではなくて

自然と出てくるものだと思う。

 

敬語そのものを知らない子もいるのかな。

それはさておき。

 

相手の人柄がすばらしいとか

行いがすばらしいとか

そういう敬う気持ちがあって、

自然と態度や言葉が畏まる。

 

『〇〇に敬語を使いなさい』と言うことは、

校長という役職や

先生という職業や

年を重ねた時間に

敬意を表しなさいということ。

 

その人に敬う部分があるかは関係ない。

 

でも、

校長や先生や年輩者には、

いろんな苦労もあっただろうし

いろんな経験もしているだろうし

いろんな知識も持っているだろうから

敬う部分がないわけではない。

 

だから、

役職や職業や時間を敬わせたいならば、

その理由を教えてあげてほしい。

校長がなぜエライのか

先生がなぜエライのか

年輩者がなぜエライのか。

 

ということで娘には、

『「じゃあ、校長先生のすごいとこ教えてよ!」

って笑顔で言うてみたらええかもね』

と伝えています。

深みに嵌ったときは

森博嗣さんの本、

好きです。

 

いつも何かに向かって

前に進まないといけなくて、

立ち止まったり

何もしないことができなくて、

手を出さなきゃいいことに手を出して傷つき、

己のやさしさの奥にある下心に落胆し、

晴天の清々しい一日を無気力に過ごして憂鬱になる。

 

食べて寝て日常をやり過ごす、

ただそんなふうに生きたいだけなのに。

日常の些事、

平気でなんていられない。

まわりがみんな

余裕もってラクに生きているようで

羨ましくて。

うまくいかなくて、

すぐに心折れてしまう自分が好きになれなくて。

 

若くて、

そんなときに出会った本。

 

いまでも、

あぁ、迷走してるな…と

思ったとき読む。

 

『ひとりじゃない』とか

『やさしくなくていい』とか

『期待しない』とか

『ズボラになれ』とか

『自分勝手に生きていい』とか

ありきたりのそういうことでなく、

とてもわかりやすい言葉で

ちゃんと説明してくれる。

思い込みで凝り固まった脳を

やわらかくしてくれる。

 

妄想すること

悩むこと

迷うこと

意味なく没頭すること

なにひとつ無駄でない。

 

酔っぱらって路上で寝ることも無駄ではない。

(そうは言ってない↑)

カメムシ茶番劇場

娘の学校でカメムシが大量発生してるらしい。

 

娘問う、

なんでよくあるカメムシのイラストって…

ミドリ色なんやろ。

 

たしかに…。

自宅周辺で見るのは茶色いカメムシ

学校で大量発生してるのも茶色いカメムシ

畑で茎にビッシリ貼りついて

ピーマンをオートメイル化させるさせるのも

茶色いカメムシ

オートメイル機械鎧

ピーマン、

オートメイル化すると強くならんと

枯れるんやけど…。

 

母曰く、
でもさ、この前一匹だけ緑カメムシ見たわ。

若者が緑カメムシで成長すると茶色くなるとか?

 

娘叫ぶ、

もしかして!!!!

 

カメムシ少子高齢化なんや!!!!

 

そうか!人間もカメムシも一緒か!!

じゃあ、しばらくして茶色が死んでしまったら

カメムシ少なくなるんやね…。

(↑ややしんみり)

カメムシ、大事にしてあげなあかんよね。

 

 

って、

そんなわけあるかーい!!

緑と茶色、種類が違うだけですやん☆

ギャハハハハー!!

みたいな馬鹿馬鹿しい母娘の会話。

受容とエゴマの関係性

ちょっと前のこと。

うちの相方(=夫)が

『あそこのコンビニでハゲた店員がさぁー』

と何気ない日常会話をはじめる。

そして、オチまで話し終たあとの一言。

 

『ま、オレもハゲてるんやけどな』

 

オトコの髪とシモは

赤子の肌ほどに繊細である。

 

老いる現実を受け容れ

嫁の前で一人ツッコミする五十路な相方。

 

そうだ、立派だ!!

そうだ、老いは成長だ!!

そして、嫁として一言訂正しておくが

あんたはまだ薄毛レベルだ!!

まだまだイケてるで!!

(なにがやねん↑)

 

さて、話変わって

去年、ワタシの右手親指を

『母指CM関節症』に至らしめた

エゴマ

脱穀と選別の作業により

茶碗も持てないほどの苦痛を味わった。

 

なぜに今年も栽培してるのか。

そして、

なぜに去年よりも多いのか。

 

ワタクシの定説として、

『収穫量を確保しづらい食材は栄養価が高い』

イコール『苦痛が大きいほど快楽も大きい』

ゆえに『SM理論』が成り立つのだ!!

(成り立たない↑)

『嫌い嫌いも好きのうち』『アバタもエクボ』だ!!

(完全にズレてきた↑)

 

不安定な世の中、

栄養満点の食材を

できるだけたくさん確保せねばならぬ。

そのためなら親指の一本や二本惜しくない!

 

老いて失うものの数だけ得るものがある。

はりきっていこー!!

 

つづく…

(↑つづかないよ)

https://x.com/Tamama0306/status/1719589878160404559?s=20

https://x.com/Tamama0306/status/1719589878160404559?s=20

https://x.com/Tamama0306/statu9589878160404559?s=

奈良市小学校給食にモノ申してみる(11月)

姉さん、事件です!!

 

奈良市の学校給食で11月に出るという

『抹茶プリン』なるもののの原材料トップが

食品添加物です…。

しょっぱなで『果糖ブドウ糖液糖15%』、

さらに次は『砂糖8%』、

てことは15%+8%=23%

四分の一弱が糖類でっせ、あまーい☆(←なつかしい)

 

つまりは、

豆乳を加工した豆乳のような液体に

水と糖類を加えて

色付け程度の抹茶を入れて

抹茶らしい匂いをつけて

ゼラチンでも寒天でもなくゲル化剤で固めた

プリン紛いのスイーツ

ってことで。

原価めっちゃ安そう!!

(↑実はけっこう高価なものやったらごめんなさい)

 

子どもに添加物の塊を食べさせてまで

デザート出す必要あるんやろか…。

 

いやいや、

奈良市は2学期給食費無償ですからね。

うん、ありがたいありがたいー!!!!

ってことでね。

栗のジレンマ

秋の味覚の中で

『おいしいんやけどね…』という肩書きを持つのは

栗。

 

時間の合間を見て栗を拾い、

『オマエ、痛ってぇな!!』とか

暴言吐きながら実を取りだし、

豊作を喜び、

そしてため息をつく。

 

時間ありあまる隠居生活の我が母は

ほしい分だけいそいそ取っていき、

『きのう栗ごはんしたし、

渋皮煮も冷凍したし、

お正月用の甘露煮もつくっちゃったー☆』

とかほざくので、

背面から十六文キックを

繰り出したい衝動にかられる。

 

『蒸してスプーンで出してペーストで冷凍しよかな』

とかブツブツ言うてたら、

娘に

『それってクリクリーム、ダジャレやん。

食べたい!全部ソレで冷凍して!!』

とかほざくので、

前面から水平チョップを

繰り出したい衝動にかられる。

 

栗を剥く。

この作業への苦痛は

『今すぐ出かけなあかんときの下痢』

『好物を食べようと口を開けた瞬間の来客』

これに匹敵する。

 

『半日あったらできるやろ』と言われそうだが

そうは問屋が卸さない。

四十路半ば第二の思春期、

根を詰めてやろうものならば

肩が凝って腕が痺れ、

肩こりから歯茎が腫れて

歯痛に苦しむことになる。

 

老いの登り口、

『地味に少しずつ』が鉄則なのだ。

 

『嫌だーっ!!』とわめきながら

床を転がり回り

地団駄踏んだところで

栗どころか

サカムケすら剥けてくれない。

 

うつむき加減で窓辺に立ち

なにかの気配に振り返ると、

テーブルには

水を張った栗ボールが

静かに置かれていた…。